使わないけど捨てられない2024年02月02日

IBM モデムセーバー
ノートパソコン持って出張先でメールの送受信、そんなのを自分がやると思ってなかったが、時代がそうなったので、おっかなびっくり、こわごわ、おそるおそる機器の操作をしていた。

音響カプラからモデムになった時、そんな自分の心強い味方になったのが、上の画像のIBMモデムセーバーだ。こういうのに詳しい同僚の「過電流でぶっ壊れるぞ」という恐ろしい忠告を安心に変えてくれた優れものだ。実際、これで警告ランプが点灯したことはなかったが、常に持ち歩く必須アイテムだった。とっくにお役御免になったのだが、手放すことができない。

あれもこれも巡り合わせ2024年02月04日

秋月 T012
「安原一式」「秋月」が発売された時は、子ども達の進学、仕送りの時期と重なって趣味に興ずる余裕はなかった。なので、ネット上の動きを眺めるだけだった。「秋月」の時は「安原一式」の登場と比べたら静かな進行だった。その動きもすっかり落ち着いた或る日、ネットでひっそり感満載のカメラ店を見つけた。そこで、「秋月」を扱っていた。子ども達も独り立ちしていたので、迷うことなく飛びついた。カメラを手にしてワクワクしたのは久々だったので、デジカメ一辺倒だったのが専ら「秋月」という時期が続いた。それを手放すことになったのは、よく言えば満足した、ホントのところでは金属カメラであって電気式というとこで熱が冷めた。

その後、「安原製作所回顧録」を買った。木偏に旁は「世」と書いて「エイ」と読む「枻文庫」で著者は安原伸氏だ。「安原一式」で市場に一石を投じたこと、「秋月」の発売が伸びて苦労したこと、その評価が芳しくなかったのも予想外のことではなかったこと、などが書いてあった。

それでも、カメラの生産が戦後日本経済復興の一翼を担い、やがて世界をリードするに至った時代は別として、一台のカメラが世に出て、それを産み出した人の思いを知る機会を得られたのは希有なことだと思った。【言い訳】もし、「秋月」を手放す前に読んでいたら今も手元にあったのに【/言い訳】とも思ったが後の祭りだった。今は、生まれた年のNIKON S NIKKOR-H・C 5cm F2まで回帰したが、一時期でも「秋月」を使って、回顧録によって一つのカメラメーカーのスタートから終焉までを知ることが出来たのも巡り合わせだったのだと思う。。

針穴写真2024年02月06日

釧路湿原温根内の木道
20年くらい前に針穴写真がブームになった。厚紙製の針穴カメラが雑誌の付録にもなった。その時に購入したのがZero2000デラックス(6X6)だった。日本では4万円くらいしたが、Zero Imageの直販は送料を含めてUS$188(188×104.21円=19、591円)とのメモが元箱に入っていた。

三脚とレリーズは既存のを使った。何枚か撮ってみて、絞り(F/no:138)は固定なのでシャッター速度は晴天下の雪景色だと1~2秒、ほかは4秒くらいが妥当なところだと掴んだ。

当時のデジカメはPENTAX *ist DS2を使っていた。この時期が、田中長徳氏の「『写真楽』五箇条の御誓文」にある「伍、アナログ、デジタル相和し共に行くべし」に一番従っていた。

その後、エプソンのGT-X970を調達してフィルムスキャンに興じたが、ほぼ時を同じくして仕事が現場から総務に異動したので、時間にも気持ちにも余裕がなくなり長続きしなかった。

昨年の3月に晴れて時間はたっぷりある環境になったので、35mmフイルムは30本用意したが、ブロニーフィルムも買って針穴写真を復活してみようと思う。

そう悲観したもんじゃない2024年02月08日

氷点下2桁台の日が続くと街全体が冷え切った感じになる。それでも、多雪地帯のことを思うと、雪かきが少ない太平洋岸はまだいいのかもしれない。

釧路では、かって日本リーグ、アジアリーグに所属したアイスホッケーチームが拠点を東京に移すことを発表した。その理由として地元支援がなかったことを挙げたので後味が悪いものになっている。

釧路は三大基幹産業が町を支えた、水産、石炭、製紙の三つだ。経済だけではなく、文化・スポーツの面に及ぼした影響は大きかった。その三つが衰退して人口減、転出率が道内ランキングの上をいくようになった。そんな中で、アイスホッケーチームも企業を離れ、クラブチームになったが続かなかった。

釧路は夕張に続いて財政再建団体への道を歩み、再生計画の策定を迫られるのでは?と言う人もいる。企業の支店、営業所が帯広に統合され、NHKも拠点を帯広に移した。これで、JR北海道が道東の支店を釧路から帯広に変えたら、釧路-根室に続いて帯広-釧路の廃線を打ち出すのでは?そうなったらいよいよだ、と悲観的だ。

三大基幹産業がコケて人口が減って、NHKに見放され、JRも逃げ腰で、氷都釧路市からアイスホッケーチームが消える、というのは、喩えてみると、9回裏無死満塁、カウントは3ボールノーストライクで投手が力尽きて登板初経験の野手がリリーフ、てなことだと思うのだけど、市民にはそんな悲壮感はない。

元々が漁師町で育てる漁業なんて考えずにやってきたから、これが気質になっているのかもしれない。こういうのは、識者にしたら危なっかしく見えるかもしれないが、見方を変えたら、当事者にそんな意識はないけど、"しぶとい"と言えるのではないか?だって、水産業界を震撼させた200海里漁業水域になって50年近く経つし、太平洋炭鉱が閉山して20年になる。その度に町が倒れると言われてきたけど倒れてない。だから、これからもこんな感じでいけるんじゃないかな、と思っている。

FMチューナー2024年02月10日

上の画像は50年前に調達したDENON TU-500だ。当時は「デンオン」といった。その後、海外の発音に合わせて「デノン」になったようだ。だけど、NIKONは海外で「ナイコン」と呼ばれても「ニコン」のままだ。「デノン」は馴染めない。

それはそれとして、当時、秋葉原でFMチューナー選びの時にもっともらしく言われていたことがある。それは、チューニングつまみをシュッと回して、ダイヤルスケールのどこまで滑らかにスーッと進むか、ということだった。

これがホントに意味があることだったのかは定かでないが、電器店ではこの光景をよく目にした。その後、チューナーはデジタル表示になって、今はコンポから姿を消した。価格COM→オーディオ(ホーム)→その他オーディオ機器→FM・AMチューナーに僅か1機種(MCINTOSH MR89 ¥935,000)が掲載されているだけだ。

コンポ以前、アンプ類とチューナーを一体化したレシーバーが存在した。まさか、そこに戻ったわけではないだろう。音楽配信がチューナー不要という環境にしたのだろうか?

あれ?こんなのあった?2024年02月12日

SUPER ROKKOR 45mm F2.8
防湿庫に納まりきらないカメラ、レンズ、アクセサリー類はドライケースに入れている。ほとんど雑多扱いだ。なので、時々、あれ?こんなのあった?ということがある。

その中の一つが、上の画像の千代田光学 SUPER ROKKOR 45mm F2.8だ。千代田光学の刻印は chiyokō となっている。「o」にマクロンがついて「chiyokō」になっているので、千代光を表しているのだと思う。千代田光学は、ROKKORとあるとおりミノルタの前身だ。

上の画像をクリックすると拡大画面になる。すると、レンズ刻印の「f:2.8」あたりがギザギザしているのがわかると思う。なにをしたらここまで金属がガタガタになるのだろう?それで思い出したが、このレンズはヤフオク黎明期にフレクトゴンを落札した時に出品者の方がオールドレンズに興味があるならとオマケに同梱してくれたものだった。その割にはカビ、曇りは思ったほどでなかった。

それから、初発見だったのが、上の画像で小さな丸い窓から「8」が見えると思うがこれは、前玉側から絞りリングを回すと、2.8 4 5.6 8といった具合に絞り値が確認できるのだ。このレンズは、フォーカスリングに絞りの指標(点)があるので、ピント合わせでリングを回すと絞りの数値が見えなくなる時がある。だから素早く絞りを合わせるには前玉側から回したほうがいい。なかなか考えられていると思う。

これをオリンパス E-P1にマウントアダプターを介して装着してみた。それで撮った画像が2枚。上のはリサイズのみ。下のはPhotoshop Elementsで自動レベル補正したもの。70年以上前のレンズだから、コントラスト云々はいえないが、フィルターなしでもレタッチすればそれなりにはなる。彩度については、元々がカラーを想定してなかったと思うので、こんなものではないのかな?もっとも、レンズの描写について語れる知識も経験もないので、このくらいにしておく。

そういえばフジペットはブロニー判だった2024年02月13日

中判カメラ2台と針穴カメラ
初めてのカメラはフジペットだった。小4(1961年 昭36)の時だから62年前になる。その前年、父親がサラリーマンから自営に転じた。社宅を出たので転校もした。親はそれを不憫に思ったのかもしれない。ほしがった訳でもないのに買ってくれた。ブローニーサイズ6x6cmフォーマットなのだが、35mm判を知らないから、カメラというのはこういうものだと思って使っていた。

大人になってからも中判カメラは幾つか使ったが、今、手元にあるのは上の画像の3台だ。それも20年くらいドライケースで眠ったままだった。先日、針穴写真をまたやってみたくなって120フィルムを注文した。
フィルムは最近になって存在を知った「かわうそ商店」から買った。自分が住む釧路と同じ北海道東部にありながら全国区のショップだ。買ったのは昨年の12月で期限が切れた特価品だ。期限切れは全然問題ない。問題はいつ撮りきるかのほうだ。自分は気移りタイプだから、少しは集中してやらなければと思う。なんとか夏までには形にしたい。

拓郎さんのレコードに入っていた東芝EMI発売リスト2024年02月16日

1974年東芝EMI発売リスト
上の画像は、拓郎さんのレコード「今はまだ人生を語らず」に入っていた東芝EMIの発売リストだ。(クリックで拡大表示)「今はまだ・・」は1974年(昭49)12月発売と同時に石丸電気3号館で買ったものだ。自分の職場が秋葉原(外神田3丁目)だったのでレコードといえば専ら同館だった。それで、このレコードは拓郎さんの個人レーベルである「ODYSSEY」なのだが、元はCBSソニーだから東芝EMIのリストが入っているのは?マークが付く。おそらく、石丸電気が入れたものだと思う。当時はそういうのが普通だったのかもしれないが、その辺りの記憶はない。

それはそれとして、このリストがなかなかいい。グラシェラ・スサーナ、リリィ、荒井由実、浅川マキ、チューリップ、赤い鳥、アリス、谷村新司、サディスティック・ミカ・バンド、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、トワ・エ・モワ、ザ・フォーク・クルセダーズ、甲斐バンド、北山修と40枚のアルバムのジャケットが並んでいる。当然ながらリアルタイムで聴いていたが、実際に買ったのは、リリィの「タエコ」と荒井由実の「ひこうき雲」だけだ。それにしても懐かしい。70年代はよかった。
上の画像は、拓郎さんの前述のレコードと収録曲の「『ペニーレインでバーボン』問題」をクリアして昨年の12月に発売されたCDだ。この間に件(くだん)の曲を除外した「今はまだ人生を語らず -1(マイナス1)」がリリースされているので、このCDは「完全復刻盤」ということになる。拓郎さんの「オールナイトニッポンGOLD」で、例の歌詞の問題がクリアした、近々、コンプリート盤が再発売される、と語っていたのだが、実際に発売になるまで結構な時間を要した。拓郎さんは"引退"したが、その後もラジオの出演はあったし、その番組では何か新たな企画もあるようなことを言っていた。これからも愉しみは続く。

増える卓上三脚2024年02月18日

ヤシカグリップ三脚 ST-7(取説より)
上の画像は、グリップ三脚を紹介するヤシカ エレクトロ 35 CNNの取説を撮ったものだ。自分はこういう卓上三脚が好きだ。ミニ三脚を含めると10本以上あると思う。ミノックス専用三脚も持っているが、肝心のカメラは購入に至っていない。定年になって無為徒食の身ではもう入手することはないと思う。「カメラ(レンズ)買うなら1万円まで」の約束を守らないと熟年離婚なんてことになりかねない。
このセットも眠らせておくわけにはいかない。

15~16年前のこと2024年02月21日

Hasselbladのレンズ
カメラ・レンズの新品、中古品の販売、下取り、買い取りで実店舗でもオンラインでも知られた某店(『中野のペコちゃん』と呼ばれるカメラ店ではない)が、自社独自のオークションを展開したことがあった。ただ、短期間だけでカメラ愛好者に浸透する前に終了した。その分、応札者が少なかったので落札価格が相場を大きく下回ることがあった。

上の画像のHasselbladのレンズがその一つだ。Hasselbladのカメラを持っていないのに入札したら、競ることなく落札した。それならカメラを買うか、とはいかない。なんたってHasselbladだ。

BRONICA/ETRSを使っていたのでHasselbladは喉手でほしかったが、ボディと必要最小のレンズを揃えるとなると中古でも手が出なかった。結局、暫くした後に入手先でないカメラ店の下取りに出した。なんか転売したみたいで後ろめたかったが、活用できる人の手に渡るほうが・・・と勝手な理屈をつけた。15~16年前のことだ。